「世界遺産 ナスカ展」

友人から教えてもらった、「世界遺産ナスカ展」(国立科学博物館)を観てきた。
平日なのに混雑しているとは聞いていた。私が行ったのも平日だったが、時間差でお客を入れるくらい、大混雑だった。

いったい、どこからこれだけの人が集まるのか…圧倒的に人口過多なんだね、東京って。コインロッカーも空きがなく、やっと一つ空きを見つけられたのは、おかげさまであった。インターネットでしっかり100円の割引券を印刷していった。もうひとつ特別展に行く予定だったので、100円割引は大きい。

私は小さい頃アニメ「アンデス少年ペペロの冒険」を観て以来、このアニメはもちろん、アンデス文明というものにも多大な関心を持つようになった。アンデス文明のみならず、古代文明、そして考古学にも引かれ、考古学者になりたいと思ったこともある。
数ある古代文明の中でも、特にアンデス文明は、ペペロの影響もあって思いいれ
の深い文明である。

アンデス文明と一言で言っても、アンデス山脈を中心とするアンデス地域(ペルーが中心らしい)には、さまざまな古代文明が、栄えた。
有名なのは、広範囲を支配し、一大帝国を築いたインカ文明である。このインカ帝国が、スペイン人に征服されたことで、それまで脈々と続いてきたアンデス文明は、事実上、崩壊する。

インカ展は、今まであちこちで行なわれてきていて、私も何度か観にいった。黄金きらびやかな展示品が印象的だったが、今回は「ナスカ」展である。

インカ文明がペルーの山岳部で発展したのに対し、ナスカ文明はインカ文明が花開くもっとずっと前に、海岸の砂漠地帯で栄えた文明だ。エジプトだのインダスだの、大陸文明がすべて大河沿いに発展したのに対し、アンデス文明は山間部や高原地帯、砂漠地帯でも発展したということが、特徴のひとつだ。水が少なかったり、生活条件が過酷な環境で、独特の文明が発展したことは、大変に興味深い。

ナスカといえば、地上絵だが、この地上絵は、砂漠地帯に描かれている。空から見なければわからないような絵を、誰が、何の目的で創り上げたのかは、いまだに謎のままである。宇宙人が描いたのだ、とか、宗教的儀式に使われたとか、さまざまな説があるが、アンデス文明では文字を持たなかったので、証拠がなく、誰にもはっきりしたことがわからないのだ。
多くの人びとを引きつけるのは謎が謎のまま解き明かされないからだろう。私なりに、きっとこうだと思う、という仮説はあるが、それは内緒。

地上絵が、どんな場所に、どんな形で残っているかは、大画面のバーチャル映像で見ることができておもしろかったが、地上絵が保存の危機にあるということに、胸が痛んだ。地上からは見えず、範囲も広くて、おまけに雨ざらしになる自然のまっただ中にあるのだから、今まで残っていたのが奇跡とも思える。

遺跡の保存は、地上絵にとどまらず、どの遺跡についてもいえることで、すごく難しい問題だと思う。私でもできることがあれば、ぜひとも協力したいものだ。(寄付ぐらいしかないのかな?)

ナスカ文明は、地上絵だけではない。ということが、今回のナスカ展でよくわかった。鮮やかな色彩と、シンプルなのに芸術的な、幾何学模様の美しいデザインの土器や織物。眼球が残るミイラが語るナスカ人の様子。外科手術が行なわれていたことを示す頭蓋骨。戦争の様子。

発掘されたさまざまなものによって、当時のナスカ文化の様子が垣間見られた。首級(討ち取った敵の首)をアクセサリーのように扱うところとか、当時は当たり前だっただろうが、今にしてみると残酷な部分は嫌いなので目をつぶって、ナスカ文明の人びとが持っていた芸術的な感性には、感激した。文字を持たないゆえのものなのか、民族性なのか。とにかく、土器や織物の模様はすばらしい。それが、あの地上にもあらわれている。
「もうあと一年は見なくていいくらいの土器を見たと思わない?」
「うん。いつまで土器展示が続くんだろ。土器はもういいよね」
「地上絵の謎ってどこに書いてあるの?」
「よく見ると、ナスカ展、って書いてあって、地上絵展、って書いてないよ」
「そっかー、ナスカ文化を知らせてるわけだ」
「うん。でも、みんな地上絵が目的だよねー」

なんていう会話が隣りでなされていた。地上絵については展示の後半部分でふれていたので、それまで、延々と土器や織物を見せられるのだから、確かに地上絵が目的の人には飽きてしまうのかもしれない。

でも、地上絵は、ナスカ文明のひとつの形にすぎないのだよ、明智君(古っ!)。土器や織物を見ていれば、地上絵のヒントが隠されているじゃないの~。ナスカ文明を広い目線でとらえないとだめだよー、と、心の中でうつうつと思うだけの私でした。

ルーシー・ボストン夫人自伝『メモリー』

待ちに待った、ボストン夫人の自伝『メモリー』(評論社)がやっと出版になった。

ボストン夫人は、『グリーン・ノウの子どもたち』をはじめとするファンタジー、グリーン・ノウ物語シリーズ(6冊ある)の作者だ。
このシリーズは大好きで、全巻持っている。何度も読み返したくなるくらい、あたたかくてすてきな物語である。

ボストン夫人は、自身が購入して住んでいた、イギリスの古いマナーハウスを舞台にしている。1120年に建てられたという、イギリスでも大変古い石造りの家は、歴史と魅力に満ちていた。夫人は、息子さんと一緒に何年もかけてもとの状態を残しつつ、自分の住居として手を加え、理想の家をつくっていった。

1990年5月、96歳で亡くなるまで、ずっとその家に住んでいたという。何百年にもわたる歴史と人々の思いがつまったこの家は、ボストン夫人が亡くなったあとも、息子さん、そして息子さんのお嫁さんの手によって生き続け、そして、物語の中でも生き続けているのである。

林望さんは、ボストン夫人が存命の頃に、舞台になった場所とは知らずに、下宿することになり、夫人と暮らされている。(それはエッセイ『イギリスは愉快だ』に書いてある)羨ましい~、私もぜひ、いつか、舞台になったこの場所を訪れてみたいと夢見ている。

夫人が作家としてデビューしたのは、60歳を過ぎてからだということが、興味深い。この自伝には、収入に困っていたというのが一つの理由で、でも、それよりも、自分自身のためにこの場所に誰かを住まわせたかったからだ、と書いてある。
「書き手が自分自身のために書いているのでなければ、人にその内容の良し悪しがどうしてわかるだろうか」と続いている。

別のところでは、自分が強く感じていることを言葉にして書くことができるだろうと考えていた、とも書いてある。

つまり、この家や場所への、夫人の強い思いが、夫人に作品を書かせたのだ。もしこの家を買うことがなかったら、夫人は作品を書いたのだろうかと思うと、家との出会いは必然だったのだと、やはり思わずにはいられない。

今回出版された自伝『メモリー』の半分は、すでに出版されている『意地っぱりのおばかさん』(福音館書店)を改訳したもので、私は以前読んでいる。ので、今回初の邦訳となる後半部分こそ、私が求めていたものだった。

マナーハウスを購入してからの話で、マナーハウスをどのように改築していったか、洪水をともなう場所にどんな庭を作り、どんなふうな植物を植えたのか、などが、書いてある。夫人の作った‘庭’に興味があった私は、庭の記述をわくわくして読んだ。バラが好きだということは知っていたが、ご自分で交配もされていたとは知らなかったし、具体的にバラの名前がたくさん出てくるので、どんなバラを育てていたかも即座にわかった。ますます、舞台になったその場所を訪ねてみたくなる。

本には、訪れる人々を、自ら案内する記述が出てくる。嫌な思いもしたようだが、舞台になった場所を見たくてやってくる人々を、はねつけることができなかったのだ。自分が愛する場所を、他の人々にも見て欲しい、共有したいという気持ちがあったのだろう。やはりそれも、家や場所に愛する愛情ゆえの行動だった。

この本は自伝というよりは、過去を回想するエッセイのようなものだ。赤裸々に、はきはきと自分の思ったことを書いているボストン夫人は、型にはまらない、自由で、強い女性に思える。こんなふうに生きられたら、どんなにいいだろう。

もちろん、人に見せない裏側には、苦労や悲しみや、いろんなことがあっただろうが、それも自分が選んだことだと引き受け、黙って乗り越えていく強さが、まぶしかった。

DVD『ナルニア国物語のススメ』

レンタルビデオ屋さんに行ったら、新作コーナーに、DVD『ナルニア国物語のススメ』(ハピネット・ピクチャーズ)というのを発見。
早速借りてきました。

アメリカで制作された、ナルニアの作家C・S・ルイスのバイオグラフィー(伝記的映画)です。
原題は、『C.S.Lewis & the chronicles of Narnia:The true story of the author of the classic tale of the lion, the witch and the wardrobe』。

どのくらいまで突っ込んであるのかと思ったけれど、子ども向けに、とてもわかりやすく、簡単にまとめてありました。映画の宣伝向け、ともとれますが、映画の映像はまったく出てこない。

アイルランドやイングランドなど、ルイスゆかりの場所の映像が出てくるのは、映画という媒体の魅力だが(それが楽しみで借りたようなものだし)、実際に現地へ取材に行ったのかどうかはちょっと疑問。というのも、止まった映像ばっかり出てくるのだ。もしかして借りた映像なんじゃ?という疑いが…。現地に行かずして映画を撮ったのであれば、ちょっと安易な作り方。

もし取材しているなら、もっといろんな映像を使ってほしかったです。だって、同じ映像を何度も使っていたりするんですから(ーー;) それも、静止映像…。

TVの『世界ふしぎ発見』みたいに、ナルニアの舞台になったであろう場所の、美しい映像とか、そういうのがいっぱいあるわけでもなく、本に載っていないルイスの写真があるわけでもなく、映像という武器を駆使して、動いているルイスの映像(講演とか、インタビューとか…)もなく、ちょっと、というか、だいぶがっかりしてしまったのは事実。

母方の祖父の家のドアノブが、ライオンの顔になっていたとか、生誕100年を記念して銅像が建てられたとか、知らなかった情報もいろいろあったけれど、もうちょっと、映画らしい、質のいいものを作ってほしかったなあ。

上手にまとめられてはいるのだが、好きな人にはちょっと不満も残る。(いくら定価が安いとはいっても…ね)
でも、こういう映画が多くの人に知られ、ルイスのすばらしさがもっともっと伝わっていけばいいのだと思う。

私、C・S・ルイスの伝記を翻訳させていただいています。子ども向けのわかりやすい本です。
『「ナルニア国」への扉 C・S・ルイス』(文渓堂)

ぜひ読んでみてくださいね。

『狐笛のかなた』

『狐笛のかなた』(上橋菜穂子著、理論社)を読んだ。

上橋さんの本を読むのは今回が初めてだ。『精霊の守り人』『闇の守り人』などが人気のあるのは知っていたが、読むきっかけがつかめずにいた。

『狐笛のかなた』は、野間児童文芸賞(第42回)を受賞していて、また、産経児童出版文化賞〈推薦〉に選ばれている。というのは、読んだあと、インターネットで調べてわかったこと。読む前、私は何にも知らずに、ふっと読みたくなって手を伸ばした。表紙の絵が美しい。裏表紙の、サクラの散る絵にも惹かれてしまった。

何も知らずに読んで、よかったと思う。どの本でもそうだが、前情報、いろんなことを知ってから読むと、楽しめなくなってしまうもの。特に、賞をとったと聞くと、とたんに読む気をなくしてしまう(私の場合)。まっしろな状態で、あるいは何年か後ほとぼりが冷めてから読むのが、いちばん好きな読み方だ(私の場合)。

『狐笛のかなた』は、読みながら胸がどきどきして、切なくなって、そして最後には泣いてしまった。泣くようなお話ではないのだろうが、心があったかくなって、幸せな気分で涙が出てしまった。こういうお話だとは思わなかった…古代日本を舞台にしたファンタジーという感じはあったが、戦って宝物を手に入れるといった冒険ものではまったくなかった。

もっと…なんというか…人間の心を見つめるような…人間と動物との垣根を越えた情愛というものを描いている。これは、すでに児童文学の域を超えた「文学」だと思えた。(理論社が出す児童書には、大人向けのものが多く、また、いい作品が多いので気に入っている)

いつの時代かはわからないが、昔の日本のとある国。
〈あわい〉に生まれ、使い魔として生きる野火。〈聞き耳〉の力を受け継いでしまった小夜。ただひたすらに、まっすぐに〈呪い〉の彼方へと駆けて行く二つの心の物語。(理論社のHPより)

野火は呪者に使われる狐で、小夜は不思議な力を持つ女の子だ。作者の上橋さんは、心に宿ったイメージを長い時間をかけて物語にしたという。ススキが生い茂る秋の野を必死で逃げる子狐を、思わず懐に抱いて助けてしまう少女。そのイメージから、上橋さんはずっと狐と少女の物語を描きたいと思っていたそうである。

野間児童文芸賞の受賞の言葉(HPに紹介されてあります)には、この物語の執筆に駆り立てた衝動は2つあった、とお話されている。ひとつは、自分の心を震わせる、美しく懐かしい風景を丹念に描いてみたいという思い。もうひとつは、獣に犠牲を強いることで悲しみを歌うのではなく、人の側が獣の方へ寄り添う物語をかいてみたいという思い。

また、このお話をたとえるなら、両手で小さな灯火を風から守っているようなお話、だともおっしゃっています。

読んでみたくなりますよね? ぜひ、読んでみてください。

ハリー・ポッターなどの外国のファンタジーもいいけれど、日本の昔を舞台にしたすばらしいファンタジーもたくさん出版されている。なるべく読みたいと思っているが、なかなか手が回らない。

私が読んだのは、たつみや章さんの〈月神シリーズ〉四部作。
『月神の統べる森で』『地の掟 月のまなざし』『天地のはざま』『月冠の巫王』と、外伝『裔を継ぐ者』(いずれも講談社)。

これは、縄文時代から弥生時代へと変わる時代を描いている。なるほど~こういう描き方もあるのか~うまいな~と思いながら読みました。

インターネットで調べると、『月神の統べる森で』も、野間児童文芸賞(第37回)を受賞しているんですね、今知りました(^_^;)

私がたつみやさんの作品で好きなところは、神々様の話がかかわっているところ。『水の伝説』、『夜の伝説』も読んだが、こんなふうに、今の日本人が忘れかけている、日本の神様のこと、信仰心を、身近に、ファンタジー風に描けたら…と、私の願いをそのまま作品化してくださっている。

信仰だの神様だのいうとすぐに、宗教だ、マインドコントロールだとかいわれますが、昔から日本人の生活には神様が深くかかわっているのだし、神様を敬う気持ちが薄れているから、人間が偉いのだとおごっているから、世の中ギスギスしてきているんじゃないかという気がしている。
きっとこれからもっともっと、目には見えない思い、心の部分や世界のことを描く作家が増えるだろう、増えてほしいと思う。そして、私もその中の一人になれればと願っている。

『少女小説から世界が見える』


先日、図書館に行ったら、新刊コーナーに並んでいた本、飛びついてすぐにかりてきました♪

『少女小説から世界が見える~ペリーヌはなぜ英語が話せたか~』(川端有子著、河出書房新社)

世界中の少女たちに読み継がれてきた、5つの少女小説(『若草物語』『家なき娘』『小公女』『赤毛のアン』『あしながおじさん』)を歴史の中に置き、捉えなおすというもの。

「そうすることによって、みんながよく知っているつもりの物語の、未知の側面が見えてくるばかりか、十九世紀末から第一次世界大戦にかけての社会の変動が、若い女性個人の体験として浮かび上がってくるのではないかと思われるからだ」と、前書きにかいてある。

『赤毛のアン』が取り上げられているとなれば、読まないわけにはいきません(^_^;)

家庭の中の少女の役割、こうあるべきという理想、社会が生んだ孤児…などなど、それぞれの作品が描かれた時代背景、歴史をふまえて物語を捉えているのが、おもしろい。『赤毛のアン』に関しては、私もいろいろ研究しているので、新しい発見というものは特になかったけれど、アンの物語のおもしろさは再確認できた。

それに、あまり取り上げられない「エミリー」や、「アンの娘リラ」にもふれているのはうれしかった。「エミリー」が「オペラ座の怪人」と似ているという指摘はなかなか興味深いものがありました。

いろいろな小説を読んでいると、あれに似てる、これに似てる、という部分が出てくるもので、そういう部分をうまくもりこみながら、おもしろい読み物に仕上げている。なので、大きく取り上げているのは5つの少女小説だが、それ以外の小説に関する記述もたくさん出てくる。自分が読んでいない小説は、読んでみようという気になってくる。

特におもしろく読んだのは、『家なき娘』(あのアニメの「ペリーヌ物語」の原作ね)の章。原作を読んだことがなく、また、あまり深く関心を寄せたことがなかった作品だからよけいだろう。原作者が男性だということも知らなかった(^_^;) フランスの作家、エクトル・マロ。『家なき子』もマロが書いたものだという。(実はこちらも原作は読んだことがない…)

原作の『家なき娘』はとても長くて、完全版を読めるのは日本くらいのものだという。アニメの人気のおかげらしい。私もアニメは欠かさず観ていた。

ペリーヌ物語を観ていたころの私は、自分と同じくらいの女の子がたった一人で生きていけるわけがない、頭よすぎる、いい子すぎる、うまくできすぎていると、さんざんに思ったけれど、それは自分と比較してそう思っていただけだったようだ。

『少女小説から世界が見える』を読むと、そういうところがこの物語の魅力なのだった。父も母も亡くすという悲しい出来事からペリーヌが学んだこと、そして自分が持っていた英語力を武器に、したたかに、賢く強く生きていく。ペリーヌはいわゆるキャリア・ガールなんである。

物語の展開も、他の少女小説と違って、とても現実的なんだそうで、そういわれると、確かにそうである。だからこそ、あの頃、ペリーヌと同年代だった私には違和感があったのかもしれない。あの頃は、現実的な物語よりも、日常生活とは切り離された世界に魅力を感じていたから。

うーん、大人になった今、もう一度、ペリーヌ物語が観たくなってしまった。
ペリーヌ物語を取り上げるなら、ぜひとも『牧場の少女カトリ』も取り上げて欲しかったな~(私は個人的に、カトリが好きでしたので(^_^;))。

海のテーマパーク「ラグナシア」

29日の月曜日は、息子の運動会の振替休日で、遠出して遊びに出かけた。
愛知県蒲郡(がまごおり)市に、“ラグナシアLagunasia”というテーマパークがあり、まだ行ったことがないので電車で出かけた。

ラグーナ蒲郡という海辺の町の、大きなリゾート開発地には、ラグナシアのほかには、マリーナやショッピング施設、温泉やタラソテラピー施設がまとまってある。ショッピングセンターには以前行ったことがあるが、テーマパークのほうは今回が初めて。

ラグナシアは、海を楽しく体験できるテーマパーク。船と航海の聖地としてあがめられ、中世に海のシルクロードの交易拠点として栄えた伝説の港町をイメージして造られている。

実は私…帆船が大好きで、帆船を見ているだけで幸せなんである。乗り物酔いをするので、船に乗れないくせに、いや、それだからかどうかはわからないが、帆船を見ていると、自分が決してできないであろう冒険の息吹と、はるか昔、帆船で地球の海が賑わった頃の歴史を感じてしまって、ぼうっとなってしまうのだ。それが、海賊船であろうと、だ。

普通の船では全然魅力を感じない。帆船でなければだめで、昔の羅針盤とか、錨(いかり)のマークとか、セーラー襟とか、そういうマリン・グッズにも弱い。ついつい、買ってしまうのです…(^_^;)。

そんなわけで、ラグナシアへの憧れというのはずっとあって、それが見事叶って、海のロマンを感じてきた次第であります!

ま、簡単に言えば、海に関連した娯楽遊園地、なんだけどぉ~。帆船見てるだけで楽しい私としては、そういう空間ってだけで、うれしかったんだけど。

ディズニー・シーなんかと比べてしまいそうになるけど、シーのほうは広すぎてとてもついていけないし、あれが見れなかった…という後悔というか、一日では満足できない残念感がどうしても残りますね。もちろん、だからリピーターが多いんでしょうが。

ラグナシアは、一日あればほとんど制覇できてしまう適度な大きさがよいです。けっこう楽しんだぞ、っていう達成感があります。雰囲気は地中海的ですね。
誰かが、志摩スペイン村みたいだといっていたけど、志摩スペイン村に行ったことがないのでわかりません(^_^;)が、スペインも地中海の国だから、似てるといえば似てるんでしょう。

平日だから、すいているかと思いきや、大勢の親子連れで賑わっている! どうやら、この近辺の学校も同じように運動会の振替休日のようである。ま、それでも、何時間待ちというほどの大混雑ぶりでもなかったので、開園から閉園まで、たっぷりと楽しむことができた。

ジェットコースター系のアトラクションを、混雑する前にクリアしようと、海竜が祀られているという神殿のほうへ。乗り物酔いする私だけど、ジェットコースターはたまに酔わないこともある。
それに、ラグナシアに初めて入った興奮と、やるぞ~っていう意気込みがありすぎたのか、「アクアウインド」に気軽に乗ってしまったのが運のつき。案の定…酔ってしまいました(――;)

「レジェンドオブラビリンス」と「トレジャーハンティング」には、子どもだけ行かせて、椅子に座って待つ(頭くらくら)。
ところが、「トレジャーハンティング」の中から子どもが戻ってきて「これ、そんなに揺れないから大丈夫だって~」と言う。どうやら、揺れない乗り物なら私が酔わないと気遣って、尋ねてくれたらしい。「えー、そんなことあるかな~」と思いながらも、子どもがせっかく聞いてくれたのだから…と、おそるおそる乗り込んだ。もう一度スタッフに念を押す。「右へ左へと、すごく揺れませんよね?」「はい、大丈夫です」。

結果は…思いっきり、酔いました(――;) おいおい、話が違うじゃないかー!! 揺れたじゃないかー!! アクアウインドよりひどい。子どももすまなさそうにしていたけど、君のせいじゃないからいいのよぉ…でも、もう、お願いだから、ジェットコースターには誘わないでね。

夏は大プールになるところは、ボートやカヌーが楽しめます。噴水ショーもありました。とてもきれい。

でも、私がいちばんよかったのは、「アヴェンストリア」というミュージカルショー。出演者は6人くらいですが、映像と、変わった造りの舞台をフルに使って、とっても幻想的なショーが繰り広げられました。なんといっても、歌がいいです!!
踊っている女性たちが、みんなうつくしい!! かわいい!!
何度でも観たくなるほどです。すぐ目の前で踊ってくれるので、迫力満点。これはオススメです♪

あともうひとつ、「ドリーミングクエスト」という、宝探しオリエンテーションゲームがおもしろかった! 「碧い涙」を携帯して、地図のかけらをゲットしていくんだけど、街中をあちこち歩き回って目的のものを探すっていうのが、おもしろいですよ。2回もやっちゃいました。もっとやりたかったけど、時間が足りなかった。結局、宝は見つからずじまいで…。

「碧い涙」っていうのは、どのゲームにも共通している、伝説の秘宝。「ラグナシアのどのゲームもねえ、碧い涙が関連しているんだよぉ~。碧い涙ってねえー、伝説の石でねー、その輝きを見た人は幸せになるっていわれているんだよー」って、後ろに並んでいる子が友だちに何度も説明していた。アトラクションやゲームがてんでばらばらにならずに、一貫しているところがなかなかよいと思いました。本一冊書けそうよ。

うちの子がいちばん夢中になったのは、ゲームが終わるとカードがもらえる「ファイア ファイア」。5回くらいやったんじゃないでしょうか。
レーザーガンでモンスターを撃つゲームなんですが、私、最初はたったの100点しか取れなかった(ーー;)。要領がわかってからは、24000点くらいいきましたが、それでもレベルはD(Aが最高)でした。(^_^;)
どのレーザーガンにあたるかで、だいぶ点数が変わってくるらしいですが(機械次第)、たしかに、それは感じます。

また、高得点を狙うにはいろいろ方法があるらしいです。人気のあるアトラクションなんだと、あとでわかりました。うちの子は、カード集めのほうに夢中になっていたような…。カードは紙じゃなくて、立派なカードで、裏に自分の得点が書いてあります。男の子は大好きだと思います。

万博で見られなかった、ラッパを吹くロボットのショーも見れました。よかった、よかった。

また来てもいいな、と思いましたが、パスポート大人3800円は、私的にはちょっと高いんじゃ…?(17時閉園だったしぃ)と思います。どうなのかな? でも、ラグナシアは、百何十億円の赤字なんですって。…世の中、厳しいです。

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を読破した!
手のあいたときに「ちょっとだけ」と思って読み始めたら、やめられなくなって、結局寝る時間を大幅に削って、二日間で読み終えた。

これでも読む速度は早いほうだと自分では思っているのだが、速読だと2時間程度で読めてしまうそうである。
書く仕事をしているので、大量の本を短い時間で読める「速読」には、昔から心ひかれていたが、まだ足を踏み入れたことはない。
大雑把な内容を捉えるだけだとも聞いたことがあるし、それだったら、私の場合は深く読み込みたいほうなので、あまり必要ないのかな、とも思ったり。

ま、速読はいいとして、『謎のプリンス』です。
「えええ~!!! ほんと、ほんとなの??」というのが正直な感想。なんだか、とっても悲しい気分でした。

訳者あとがきに、J・K・ローリングさんが、物語がだんだん暗くなると宣言していた、と書いてある通り、『謎のプリンス』はたしかに暗い。いや、もう前作の『不死鳥の騎士団』から暗かった。『騎士団』の終盤(甦る場面)は、子どもにこれを読ませていいのか? なんて、思ってしまうくらいの、生々しい描写でしたし。

それにしても、最終巻が待ち遠しい展開になりました。英語版でもいいから読みたくなるくらい、最後がどうなるのか気になります(もっとも、英語版読んでも、内容はちっともわからないと思うんですが、気分的に、ということで(^_^;))。

子ども向け(もうローリングさんはそうは思っていないのかしらん)なら、実は…というどんでん返しもありうるのか? と思ったり、もっともっと「愛」とか「生きていく」ことを真剣にとらえる展開になっていくような気もするし、魔法界と人間界がもっと密接につながっていくような気もするし…。

私的に、「鍵」となる人物はこの人じゃないかな、ってマークしている人物がいるんだけど、あまりに探偵小説的に読むのも違うのかな?

いずれにせよ、最後がどうなるのかは、ローリングさんは現在執筆中らしいので、わからない。(最終章はもうできていて金庫だかに保管してあるんだそうです)

にしても、ハリーももう16歳(ロンたちは物語の中で17歳になります)で、いつまでも子どもじゃありません。魔法界では18歳で大人だそうです(描写にそうあった)。ハリーはあと一年で成人するわけで、そうなると当然、恋愛のほうもかなり関わってくるわけで…。

それはわかるんですが、今回はえ、なんでハリーとあの子? この間の今回で、そんなすぐに変わってしまうわけ? ちょっとふにおちない。それにロンの恋描写が露骨というか、あまり美しくなく、子どもにもあまりいい影響を与えない気がして、大変気になった。気になったというか、嫌だった。こういう展開を長々と読まされるのは苦痛である。
ロンやハーマイオニーが冒険しなかったぶん、恋愛のほうにいってしまったのだろうか…。

わくわく、どきどきの冒険がおもしろいところだったのに、今回は少なかった。
(ファンの人には嫌な意見かもしれません、どうぞ読み飛ばしてください)

あ、あとどうでもいいことですが、人の名前が覚えられない…。だって、長ったらしくて難しい名前ばっかり登場するんだもん。日本人の名前だって覚えられない私なのにぃ。

『「ピーター・パン」がかけた魔法 J・M・バリ』

大阪のユニバーサルスタジオで、ピーター・パンのショーが始まっているし、ミュージカルでもピーター・パンは長い間上演され続けている。ピーター・パン人気は衰えることをしらない。

みなさんはもう映画『ネバーランド』、観ました?
私は劇場で見逃したので、DVDが発売になったその日に借りてきた。今、『チョコレート工場の秘密』でまた脚光を浴びているジョニー・デップ、『ネバーランド』でももちろん主役。あの名作『ピーター・パン』を書いたJ・M・バリを演じている。ネバーランドとは、ピーター・パンが住む夢の国だ。

なぜそんなに『ネバーランド』にこだわったのかというと、実はJ・M・バリの伝記を翻訳したからである。

私自身、伝記を読むまで、バリについてはほとんど何も知らなかった。バリは英米ではとても有名な人だが、その名前はというと日本では知られていないような気がする。書いたバリの名前よりも、『ピーター・パン』の名前のほうがだんぜん、知られているようだし。

バリは多作で、さまざまな作品を書いた。でも、日本で翻訳されている本は『ピーター・パン』と『小さな白い鳥』ぐらいしかない。

バリは小説よりも、戯曲(演劇の脚本形式で書いた文学作品)を好んで書き、『ピーター・パン』も、実は戯曲から生まれた。
本として出版されたのは、ずっとあとになってからだ。

『ピーター・パン』は、彼自身の、子どもたちとの遊びから生まれた(つまり、ピーター・パンにはモデルがあった)。バリは子どもと遊ぶ天才で、バリ自身、子どものままだったという人もいる。

そういうことも知らなくて、もちろん、バリがどんな人生を送ったかも、まったく知らなかった。バリに関する本も、日本では少なくて、あっても大人向けのちょっと難しい内容の本だったりする。

だから、子ども向けのバリの伝記の翻訳の話をいただいたときは、興味をひかれた。読んでいくうちに、ひきこまれた。バリはなんという人生を送ってきたのだろう。悲しみ、苦労、努力、そして喜び、戦争、絶望…。さまざまな試練を乗り越え、必死で生きてきたバリに、私は頭のさがる思いであった。

バリになぜ今になってスポットがあたり、映画『ネバーランド』がつくられたのかというと、今年2005年は『ピーター・パン』生誕100周年だから。
映画は、このバリをどう描くのか。楽しみであった。

観る前から、映画は事実とはかなり違っていることは聞いていたが、たしかにバリの伝記映画というよりは、恋愛映画にまとめられてあった。
ピーター・パンのモデルになった子どもたちの母親シルヴィアにバリが恋をして、映画ではその恋が実ったかのような感じになっているが、実際は違う。

映画ではシルヴィアはバリに会ったときすでに未亡人という設定になっているが、シルヴィアが実際に未亡人になったのはバリと出会ってかなりあとになってからである。シルヴィアは5人子どもを持ったが、バリと出会った時は3人で、バリと知り合ってからもう2人の子どもを夫との間にもうけ、バリに恋愛感情を持ったことはない(伝記を読むかぎり)。

映画では、シルヴィアの子どものひとり、ピーターという少年が、ピーター・パンのモデルになったかのように描かれているが、バリがピーターに出会ったとき、ピーターはまだ赤ちゃんだったし、ピーター・パンの名前の由来にもなっていない。

とまあ、事実と違うところは多々あったが、全体的には恋愛映画としてとてもよく構成されていると思った。事実を考えないで観れば、映画という一つのすぐれた作品だと思う。もちろん、監督もそのような意図でつくったのだと思うし。

いやー、それにしても、ジョニー・デップのバリは、かっこいい。かっこよすぎる。実際のバリも、決して顔が悪いわけではない。私はバリのような顔立ちは好きである。バリのコンプレックスは背が低かったことだ。
ところがジョニー・デップはすらりと背が高いから、とてもバリとは重ならない。実際にバリがジョニー・デップのようだったら、シルヴィアはバリに恋愛感情を持ったかもしれないなあ~なんて…俗っぽいことを考えてしまいました。

とにかく、映画を観た方には、映画と実際とがどう違って、本物のバリがどんな人だったのかを知ってほしい。観てない方にも、バリの人生をぜひとも知ってほしい。そういう熱い思いで、伝記を翻訳し、出版にいたった次第です。

子ども向けに、とてもわかりやすく書かれた本です。多くの方に楽しんでいただけると思います!
『「ピーター・パン」がかけた魔法 ~J・M・バリ~』は、文渓堂(ぶんけいどう)から出版されています。手にとってご覧ください。

『皇女アナスタシアの真実』

映画『名探偵コナン 世紀末の魔術師』がおもしろかったと言ったら、友人から映画『追想』を勧められて観た。
どちらも、ロシアのロマノフ王朝ニコライ二世一家が背景になっている。

ロマノフ王朝については、今までも気になっていたが、それ以上に知りたくてたまらなくなったので、図書館で本を検索してみた。何冊か手にしたが、ちょっと内容が難しい。その中で、手ごろでわかりやすい本が、この『皇女アナスタシアの真実』(柘植久慶著、小学館文庫)だった。

1994年に、ニコライ二世の四女・アナスタシアを名乗るアンナ・アンダーソンのDNA鑑定の結果が出て、彼女はアナスタシアではなかったことが判明した――という事実を、作者が疑問視するところからはじまっている。数多くの文献をあたり、自らも取材して、やはりアンナ・アンダーソンはアナスタシアだったという結論にまとめている。

ニコライ二世がアレクサンドラと結婚するところから、本の主人公であるアナスタシアを中心に歴史を追って話が進んでいくのだが、それがとてもわかりやすく、おもしろいのだ。淡々と進んでいくところもいい。

アレクサンドラ皇后は、イギリスのヴィクトリア女王の外孫にあたると知ると、ヴィクトリア女王時代びいきの私としては、いやでものめりこんでしまう。
ヴィクトリア女王は幼少時、ドイツで育てられたそうである。
アレクサンドラはドイツ出身だが、イギリス式の教育を受け、王家ではもっぱら英語が用いられていたという。また、王家とはいえ、ニコライ二世もアレクサンドラも浪費を嫌い、アレクサンドラの影響でドイツ風の質素な(私たち庶民からすれば豪華だが、王室の暮らしとしてはかなり質素なほう)暮らしをしていたという。それが、のちに結果としてはアナスタシアに幸いすることになるのだが、そのへんは本を読んでね。

愛人だの、同性愛だの、薬物中毒だの、王室の隠れた(乱れた?)一面が赤裸々に書かれてあり、王室という特殊な環境と、ロシア革命にいたる経緯、そして政治のつながりなども、これを読むとよくわかる。物事の表と裏、体裁と本音、隠蔽工作、正義と裏切り、高慢と思いやり…そんな人間的などろどろした部分が、歴史の根底にはあって、アナスタシアは生き残ったがゆえに(私はアナスタシアが、アンナ・アンダーソンだと信じてしまっているのでこう書いてますが(^_^;))、一生涯、それに翻弄されることになる。

アナスタシアの側からすれば、イギリスは悪者(実際ひどいことしてるんだけどね)で、あのヒットラーは支持される人間となるし…。物事をどの面から、誰の立場で見るかで、まったく違ってくるのだ。歴史は特にそれが顕著にあらわれるだろう。

アナスタシアは、自分がアナスタシアだということを証明できずに亡くなったことがどんなにかくやしかっただろうと思う。でも、反面、証明する機会はあったのだから、高慢をすて、自分の協力者にもっと寛大であればよかったのに…。などと、本当にいろんなことを考えてしまいました。

映画になったりすると、どうしても美化してしまってアナスタシアには汚点はないと信じてしまうけれど、現実にはさまざまな問題があるんですよね。もとをただせば、アレクサンドラ皇后の子育てにも考えが及ぶし…。

エピローグに書かれてあるイギリス王室の崩壊…の予感についても、ちょっと寒気がしたりして。

漫画『耳をすませば』

知人から紹介のあった、『耳をすませば』の原作漫画を読んだ。
悩んだ末(悩むなよ~(^_^;))柊あおいさんの『耳をすませば』(集英社文庫)を買った!

話に聞いていたように、宮崎駿さんは、原作をめちゃくちゃに変えてはいなかった。が、だいぶ違う話に思えた。

漫画のほうは、カジュアルというか、“恋”を意識した展開になっているように思えた。少女漫画雑誌の連載だったのだから、それは当然といえば当然のことなのだが、映画を観たあとに読むと、その“恋愛”の部分がとても目立って映った。

映画は、「自分は何がやりたいのか?」と悩む主人公の揺れる思いと、自分の目標をしっかりと追っている少年との対比や、淡い恋心なんかが、実にうまくまとめられていて、爽やかだった。“恋”というよりは、生き方を見つめるような部分があって、そこがとてもよかった。宮崎さん流になると、こういうふうになるんだ、と正直、やっぱりすごい、と思ってしまいました。

漫画にも、もちろんそういう要素はあるし、生き方を必死で模索する…的な部分もある。だけど、なにか違和感があった。なんだろう、と思って、巻末の対談を読んだところ、それがわかった。
柊さんは、好きだ、嫌いだに終始するものではなく、生きていくには恋愛以外にも大事なことがたくさんあるから、もっと広がりのある世界を描きたかった、と言っている。
それで張り切ってこの漫画を描き始めたものの、読者に受け入れられずに四回で終わってしまった、つまり、いろいろな展開を考えていた作品が消化されずに途中で終わってしまったのだというのである!

こんなことがあるのかー、と、やるせない気持ちになってしまった。
「好きだ、嫌いだ」という気持ちの問題に終始しているのは、読者がそれを好むからであって、そういう読者に違う物を見せても、受け入れられないということなんでしょう。と、柊さんが言っている。

私はこの漫画を、“恋”を意識した展開になっていると思ったけれど、それでも柊さんは精一杯、格闘して、違う世界を創っていたのである。読者は、もっともっと、べたべたの恋愛を望んでいるのか…と思うと、読者の質のほうも問題だよなあ、と思えてくる。

「好きだ、嫌いだ」に終始している少女漫画の没落をなげき、宮崎さんは『千と千尋の神隠し』を完成させた。そして、受け入れられた。

宮崎さんは『耳をすませば』のときから、柊さんのそうした葛藤を知っていただろうし、自分でもそう思っていた。少女漫画と映画とでは違う部分が多々あるが、宮崎さんが映画『耳をすませば』で、ある意味、柊さんの心残りというか、悲しみを解消してくれたのかもしれない。

柊さんにとっては、自分の漫画が映画になる、有名な宮崎さんが作ってくれる、という喜びだけでなく、自分がやりとげられなかった世界を表現してくれたという点で、さらに感慨深い映画だったに違いない。まさに、運命の導きなんだろうな!

それがわかっただけでも、文庫を買ってよかったです(*^_^*)

それに、柊さんは、赤毛のアンのシリーズが好きでよく読んでいたんですって。それも対談に書いてありました\(^o^)/ 仲間ですね~。

これからどんな作品を生み出していくんでしょうね。読者にこびず、精一杯、自分の創りたい世界を描いていってほしいです。私はめったに漫画読まないけど、今回のように、必要とあらば誰かが教えてくれて、いずれ導かれていくのでしょう。