知人から紹介のあった、『耳をすませば』の原作漫画を読んだ。
悩んだ末(悩むなよ~(^_^;))柊あおいさんの『耳をすませば』(集英社文庫)を買った!
話に聞いていたように、宮崎駿さんは、原作をめちゃくちゃに変えてはいなかった。が、だいぶ違う話に思えた。
漫画のほうは、カジュアルというか、“恋”を意識した展開になっているように思えた。少女漫画雑誌の連載だったのだから、それは当然といえば当然のことなのだが、映画を観たあとに読むと、その“恋愛”の部分がとても目立って映った。
映画は、「自分は何がやりたいのか?」と悩む主人公の揺れる思いと、自分の目標をしっかりと追っている少年との対比や、淡い恋心なんかが、実にうまくまとめられていて、爽やかだった。“恋”というよりは、生き方を見つめるような部分があって、そこがとてもよかった。宮崎さん流になると、こういうふうになるんだ、と正直、やっぱりすごい、と思ってしまいました。
漫画にも、もちろんそういう要素はあるし、生き方を必死で模索する…的な部分もある。だけど、なにか違和感があった。なんだろう、と思って、巻末の対談を読んだところ、それがわかった。
柊さんは、好きだ、嫌いだに終始するものではなく、生きていくには恋愛以外にも大事なことがたくさんあるから、もっと広がりのある世界を描きたかった、と言っている。
それで張り切ってこの漫画を描き始めたものの、読者に受け入れられずに四回で終わってしまった、つまり、いろいろな展開を考えていた作品が消化されずに途中で終わってしまったのだというのである!
こんなことがあるのかー、と、やるせない気持ちになってしまった。
「好きだ、嫌いだ」という気持ちの問題に終始しているのは、読者がそれを好むからであって、そういう読者に違う物を見せても、受け入れられないということなんでしょう。と、柊さんが言っている。
私はこの漫画を、“恋”を意識した展開になっていると思ったけれど、それでも柊さんは精一杯、格闘して、違う世界を創っていたのである。読者は、もっともっと、べたべたの恋愛を望んでいるのか…と思うと、読者の質のほうも問題だよなあ、と思えてくる。
「好きだ、嫌いだ」に終始している少女漫画の没落をなげき、宮崎さんは『千と千尋の神隠し』を完成させた。そして、受け入れられた。
宮崎さんは『耳をすませば』のときから、柊さんのそうした葛藤を知っていただろうし、自分でもそう思っていた。少女漫画と映画とでは違う部分が多々あるが、宮崎さんが映画『耳をすませば』で、ある意味、柊さんの心残りというか、悲しみを解消してくれたのかもしれない。
柊さんにとっては、自分の漫画が映画になる、有名な宮崎さんが作ってくれる、という喜びだけでなく、自分がやりとげられなかった世界を表現してくれたという点で、さらに感慨深い映画だったに違いない。まさに、運命の導きなんだろうな!
それがわかっただけでも、文庫を買ってよかったです(*^_^*)
それに、柊さんは、赤毛のアンのシリーズが好きでよく読んでいたんですって。それも対談に書いてありました\(^o^)/ 仲間ですね~。
これからどんな作品を生み出していくんでしょうね。読者にこびず、精一杯、自分の創りたい世界を描いていってほしいです。私はめったに漫画読まないけど、今回のように、必要とあらば誰かが教えてくれて、いずれ導かれていくのでしょう。