みちのくの小京都・村田(後編)

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豪壮な店蔵は、ベニバナをはじめ、生糸や綿糸、味噌、しょうゆなどで富をたくわえた商人によって、江戸時代後期から大正時代ごろにかけて建てられました。現在も残る蔵の町並み、建物の細部からは、当時の繁栄ぶりがうかがえます。

電話番号表札が、各豪商の表門に掲げられているのは、当時電話をつけることができたという、富の表れなのでしょう。

商家の敷地は、一般に間口が狭く、奥行きが深い短冊形の形状をしています。店は街路沿いに建てられ、生活の場である主屋はその背後のつらなります。さらに、敷地の奥に向かって、物品などを収蔵するための土蔵が立ち並びます。これらの建物は、敷地の北側に寄せて建てられ、南側を村田石が敷き詰められた外通路が貫きます。また、店の南脇、つまり外通路の入り口には、軒を深く張り出した大型の表門が構えられます。このように、店と表門が街路に沿って交互に建ち並ぶ景観は、町並みの大きな特徴です。

上の写真は「やましょう記念館(旧大沼家住宅)」。中を自由に見学することができます(無料。村田商人「やましょう」は、町有数の豪商でした。建物に付随する表門(上の写真の左にちょこっと写っている)は、薬医門と言って非常に珍しいとされ「やましょう」邸のシンボルです。離れ座敷は、名曲「影を慕いて」の作曲者・古賀政男氏も宿泊したことがあるそうです。
このやましょう記念館は重要文化財指定を申請中。指定されれば、村田町内では初めて、また、商家建築の重要文化財は県内で唯一となるとのこと。待ち遠しいですね。

やましょう記念館の向かいにある雑貨屋さん。やましょうが実家だとのこと。「蔵の資料館」と書かれてあり、蔵などに残っている古いものを展示した二階を、無料で公開しています。

お店の奥にはお休み処(カフェ)があります。上の写真を見ると、奥になが~く連なっている、この町の建物の特徴がよくわかりますね。

土曜日だというのに、私たちのほかに観光客らしき人は一組みしかおらず、曇りという天気も相まってか、とても閑散とした印象で、こんなにいいものが残っているのに、本当に残念でなりません。どうぞみなさん、村田を訪ねて口コミを広げていきましょう!!

最近の調査で、力をつけた村田商人が、財政赤字に悩む村田の領主の求めに応じてカネを貸し付けていたこともわかりました。返済の代わりに名字帯刀を許され、刀剣などを受け取っていたとのこと。商人たちはさらに、凶作になると、困窮した住民に米や現金を施したり、米の安売りを行ったりして救済していたそうです。天保の大飢饉の時には、京都の紅問屋や糸店から救済金が送られてきた記録も残っており、紅花ネットワークの結びつきの強さを示していると、新聞に書いてありました。

そんなに栄えていたのに、衰退していったのはなぜでしょうか。明治時代になると、沖縄や中国からの安い紅花が輸入され、さらにはドイツから化学染料アニリンが輸入され、その普及に負けてしまったのです。
最近は、ベニバナを復活させる動きもあるようですが、ベニバナでの町おこしは山形のほうが先をいっている気がします。がんばれ、村田!!

 

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